野木淳一プロフィール

このページでは、なぜ自分がトータルヘルスケア温を立ち上げたのか、お客様にどんな体験をしてもらい喜んで頂きどうなって欲しいのかを綴っています

ぜひ最後まで読んでくださいね!

サラリーマン時代から2代目継承へ

私は小山町で生まれ育った、小山っ子 生粋の田舎者です 笑 
初めの仕事はサラリーマン時代へ遡ります
町内にある歯科関係の材料を作る会社に就職し、製造部門の仕事をしていました
父が同じく小山町で野木製作所という製造業を経営していましたが継ぐ気はなく(というか絶対にイヤだって思ってた・・・)その会社に7年勤めました
そんなころ、父が家業を大きく変化する案件があって「うちで働かないか?」って 未だ反抗期だった自分はもちろんNo でも「なんだ自信ねーのか」の一言に揺さぶられ結局継ぐことに・・・自分の負けず嫌いなとこよく知ってたんですね、、
父の方が上手でした 笑
ということで27歳のときに2代目として野木製作所に入社しました

二代目コンプレックスに悩み…

野木製作所は、建機や農機のクリーンな排気ガスを出す環境型ディーゼルエンジンや電力設備の電線(ハーネス)の製造、ベッドのマットレスの部品、木材、金属の加工といった製造を行っています

でも努力しても
「お父さんが立ち上げてくれた会社だからね…」
って言われること多々、、
2代目コンプレックスにずっと悩んでましたね 苦笑
その反動から『自分で何かを立ち上げたい!』
と自社の製品開発をしたこともありましたが、なかなかうまくいかず…
2012年に社長を継ぎますが、その後もこの2代目コンプレックスから抜け出すことはなく悶々としていたなと

父の他界

そんな日々を送る中、2014年春に父がすい臓がんに・・・ 本人と共に自分も落胆したのを今でも鮮明に思い出します
10時間以上の手術は何とか成功、転移もなかったのだけれど、その1年後に肝臓へ転移再発し、その8カ月後の2015年末に73歳で他界
一般的な寿命からするとあと10年は生きられたのかな
抗がん剤治療で都度付き添ったり代替治療で都内まで行ったりと出来る限りのことはしたつもり
でももっと何か出来たんじゃという思いはずっと心の中で渦巻いていたな
「病院の対応」「治療の方針」「メディアに溢れかえる情報」に腑に落ちない気持ち多々 インターネットで藁をもすがる思いでみつけたのが「米ぬか酵素風呂」でしたね
父が亡くなる2ヶ月前にみつけて連れて行ったけれど時すでに遅く…
このあと、3ヶ月くらい
「本当にこれしかやってあげられることはなかったのかな?」
と割り切れませんでしたね
でもそれを機に
『もっと、体や健康のことを勉強したい!』
という想いが胸の奥から溢れ出てきたのを今も覚えています
家族が大病を患ったときに冷静ではいられないことを身に染みて経験したのは今では自分の糧になってるし
学びを深めるきっかけを父が作ってくれたのかな
でもこの頃はまだ自分の仕事にしようなんて思う訳もなく家族や自分のために学ぼうという程度でしたね

今度は母の体調が…

ようやく父の死を受け入れられるようになったころ、今度は母の体調が・・・
父の死がとてもショックでストレスフルだったのかな
「ギランバレー症候群」に侵されていました
調べてみると、これは手足が動かなくなってしまう疾患で、原因がまだ解明されていない難病
母も手足がうまく動かせなくなって辛そうでした・・・
大学病院に入院してしばらくの治療そのあとリハビリ病院
半年くらいの入院生活は体に堪えただろうな
退院後も辛いリハビリ生活が続き、車イス生活となってしまった
今回も病院の対応に疑問を持つこと多々
何とか民間療法で母を普通の生活に戻してあげられないかと思う中で酵素風呂を思い出したんです


酵素風呂を自宅に!

とはいえ、車イスの母は酵素風呂のお店に通うことは難しい・・・
自分の想いはただひとつ
「母をなんとかしてあげたい!」
ということで
「行けないなら家に酵素風呂を作ろう!」
といういかにも自分らしい発想
やっぱり普通じゃないなって 笑
行動力だけは昔から鍛えておいて良かった!
インターネットで調べたり、直接酵素風呂をを作る会社に足を運び、必死に探したけれど、なかなか信念を持ってやっている所がなくて途中で挫折 
難しいかなって
でも諦めきれなかったんですね
また探し出しちゃって
そして行きついたのが、酵素風呂のお店の開業支援を行っている東京の女性の先生でした
先生がもともと地元が静岡ということや同世代、そして体が弱い自分のために始めたこともあり、意気投合
この時は運命的なものを感じましたね!
この方にお願いしようって!
もう直観です
そして2017年3月に自宅に酵素風呂を設置しちゃいました
入った人なら分かってくれると思いますがあれを自宅にしかもテラスに置くって 笑
でもまだこの時点でも酵素風呂のお店をやろうなんて考える余地もなく
とにかく母を酵素風呂に入れてあげたいなって!

半年後、杖をつきながらも歩けるように!

待ちに待った酵素風呂が我が家に導入され、毎日母の服を脱がせ、抱きかかえて入酵させましたね
何だか自分も必死だったな
糠をかけるときの「温かい」「気持ちいい」って言葉と表情が未だに脳裏には鮮明に焼き付いてます
毎日毎日、母も頑張ってくれたのもあるけれど、なんと半年後には杖をつきながら歩けるようになったんです!
ギランバレー症候群の人は処置が遅れるとなかなか歩けるようになるのは難しいと言われていたので本当に驚きと喜びで心が満たされたのを今でも鮮明に覚えている
そして、この母の姿を見て
「酵素風呂凄いな!」
「これ仕事にしたいな」
って思うより先に行動に出ていた気がする

大きな決断をした瞬間でしたね!

体のことで困っている人
不調で悩んでいる人
どうしたらいいか分からない人
そんな人たちがきっと沢山いるはず
自分もその人たちのために役に立ちたい!
こんな想いから御殿場に「米ぬか酵素風呂 温」を開業しようと決意したんです!


母の急死

その後も、母のギランバレー症候群はどんどん良くなって介護度も3から2に下がるまでになっていました
そんな中、骨粗しょう症も患っていた母が圧迫骨折をしてしまって入院中、病院で急死してしまったんです
その時、先生からは「死因がよく解らないので、とりあえず急性心筋梗塞にしておきましょう」と言われてしまって・・・
本当に突然のことで自分は母の死に目にも会えぬまま逝ってしまった
これが2019年2月のこと
母の亡くなった2ヶ月後「米ぬか酵素風呂 温」は無事にオープン
でも母にお店を見せることができず本当に悔しかった・・・
実はこの時に、自分の病院への不信はより一層強くなっていた
死因が判らないことは仕方なくとも、先生の話し方や態度に強い不信感がぬぐい切れなかった
今の自分があるのはそんな経験から「お客様やそのご家族にこの事業を通して親身になって寄り添えるヘルスケアの店にしよう」
そんな想いを胸に2019年5月に御殿場市に「酵素風呂・温」が誕生しました

酵素風呂だけでなく「ビワ温圧療法」の導入!

酵素風呂のお店として開業した温
徐々に常連のお客様が来て下さるようになりました。妻とともに仕事をやりながらスタッフも増えてきた頃、お客様の笑顔や酵素風呂に満足してもらった感想を伺っていくうちに『酵素風呂だけでなく、もっとお客様の健康にために役に立ちい!』という想いに駆られ、様々な民間療法を調べていくうちに「ビワ温圧療法」にたどり着いたんです
実は30年前の20歳の頃、ビワの温灸器を自身で購入して家でやっていたんです
ずっと頭の片隅に残っていた記憶がバンっと出てきた 笑 またまた運命的なものを感じましたね!
2019年11月に今のメニューにある「ビワキュー」の研修を即決で受けに熊本まで!(今回も素晴らしい決断力と行動力♪)
5日間・朝から夜までびっしりのスケジュールで座学と実技を学んで何とか療法師の資格を取得
49年間でイチバン頭を使った5日間だったし、東洋医学の知識もゼロでよくやったよなと今では自分に感心 笑
そして「やっぱりビワ温圧療法ってスゲー!」って実感!
温に帰ってきて更に7日間の横浜でのインターンを経て「ビワキュー温指導所」を開業しました
お客様の反応は上々
「痛みが緩和したよ!」と言って頂いたときは何だか救われたな

お客様が「未病に気づき、健康寿命を延ばすお手伝いを!

その後も
量子波動器「メタトロン」
音の波動器「音響チェア」

といった「波動医学」の要素も入れ込んで
「未病に働きかけて地域の方々の健康寿命を延ばしたい」
という想いが強くなりましたね
「どんな人でも元気に体が動くことが幸せ!」
「そんな広い視野での健康づくりのお手伝いをしたい!」
という強い気持ちで自分の育った生まれ故郷・小山町に移転し、2021年2月「トータルヘルスケア温」が誕生です!

地域住民の健康オアシス的な場所にしたかった事と「間違った食」が病気を作っていることを痛感し「健康カフェ」も作りました
色々な講座や教室などもこれからやっていきたいですね!
これが
父と母の死から辿り着いた答え

それがトータルヘルスケア温で花開き地域の方々がより健康で笑顔になれる場所になってもらえたらとっても幸せ!!
大事にしている言葉
「病は自分で治すもの」
「なる前に働きかけるもの」
「食で治らない病気は医師でも治せ  
 ない」
「医食同源」

ということ

ここまで長文をお読み頂いた皆様
本当にありがとうございます!
もうあなたは自分にとって「他人」ではありません
ぜひお店でお会いしましょう!
お待ちしております

トータルヘルスケア温 
    代表 野木淳一